毎月の例会で、会員の有志がこけしを展示して、そのこけしにまつわる話を聞かせてくれます。



−3月− 佐藤養作のこけし
(手塚 正二)
写真左養作、右師匠武蔵
佐藤養作は農家の長男として、明治42年に鳴子の近くの金田村で生まれた。母の実家の縁で、高等小学校を中退し、高橋武蔵について木地修業。「こけし辞典」によれば、高亀には大正12年に入り年期明け後職人として勤めたが、昭和7年天野正右衛門を頼って、山形市東根市に移り天野正右衛門が次三男対策として開いていた木地挽き養成所を、正右衛門、大沼新兵衛らと協力して運営したが、転業して旅館の番頭になった。当時養成所に土谷幸作氏が居たという。
その後運送会社に勤務した。転業前の作品はほとんど確認されていない。川上克剛氏が強く描彩を働きかけ、定年を待って昭和42年年会田栄治氏の,鳴子型木地に描き復活した。その後秋山忠市木地と、会田栄治木地のものが多く作られたと見られていたが、会田栄治氏によれば、提供した木地は数十本で、栄治木地のものが多く作られたと云う説は否定された。

忠市木地は知らないが、此のほかにこけし店の仙台屋(廃業)が鳴子系の何方かの木地で作らせたという。養作のこけしは、一筆目と二筆目がありそれぞれの趣をもっている。

胴模様は高亀式の重ね菊です。製作本数も少なく、名前も知られていないので、あまり注目されていない工人ですが、古い時代の様式をそのまま伝えるような、趣のあるこけしである。

友の会例会でも抽選頒布された。
再開後まもなく、年齢的なことと、轆轤が古くなったことが相俟って、作るのを中止してしまった。
昭和63年11月14日逝去、81歳。